漫録

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2006年05月22日

平成18年05月22日
感想文。
「思ふ」や「考へる」は論文で書いてはならない、と云つたことを、昔、友人から聽いたことがある。をかしいことを云ふものだ等と考へながら聽いてゐた。入試用小論文の參考書に由つたらしい。類書をサッと見てみると、やたらと使ふものではない、と云ふ程度のことが書いてあつた。それはそれとして、よくもまあこんな物が賣れるものだと感心した。書いてあるのは、題材こそ込入つたものだが、作文の域を出たものがなかつた。肝心の解説は普遍性が無いもの許りで、これの例題に書かれてゐない題材がでたら「受驗者」氏は途方に暮れるんぢやないかと思つた。「書ける人」は元から必要がない。吾は書けない人だつたから、解つた積もりにはなつても、やはり解つてはゐないから文章が書けるに至らなかつた。多少なり參考になつたことがあるとすれば「推敲」である。尤もこの類の本に書かれてある「推敲」とは校正のことをさう「表現」してゐる。句讀點の付け方、送り假名の送り方、文體は常體を用ゐよ、云々は、大抵は校正レヴェルでの問題である。これは必要條件ではあるが十分條件ではない。それなのに、この程度の「解説」だけで例題作文の「解説」に移つてゐた。例題にあるやうな作文を讀む氣はさらさら(讀んでも仕方が)無いから切上げた。考へてみればこの「例題作文の解説」を讀み、何故だか「解つて仕舞ふ」人が居て、恐らくはそれで賣れてゐるのだらう。何ともおぞましい事のやうに思ふ。

別記

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