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漫録

2006年04月11日

平成18年04月11日

日の丸・君が代国旗国歌法が、1999年に成立する際には、当時の野中広務官房長官は、「国として強制したり、あるいは義務化することはございません」「また、国民生活に何ら変化や義務が生じ、影響を与えるものではない」と国会で答弁をしています。しかし、成立した途端に学校現場には、凄まじい強制が起きました。

本当に歌っているのかどうか、チェックをしている学校があります。(中略)学校現場は年々きつくなっています。

當り前のことをしない教員がゐるから「きつくな」るのです。教師は、忘れ物が多ければ其のチェックをきつくするぢゃないですか。それと同じです。政府には反國家的行動を抑へる義務があります。國歌國旗はその國を表します。それに反對するとなれば、反國家的行動です。ですから、法制化は當然の結果なのです。法制化の原因は反對論者の側にあるといへます。それを棚に上げて、強制だなんだと騒ぐのは愚かしいと思ひますが、いかがでせう。

処分をちらつかせて、踏み絵を踏ませるようなことをしておいて、

「踏絵」なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。

そこに思想・良心の自由があるでしょうか。

あります。以上。

上から弾圧しておいて、魂の自由のないところに教育はあり得ません。国家が個人の内心に入っていくことは大問題であり、教育に公権力は入ってはならないのです。

どう大問題なのですか。あと、「教育に公権力は入ってはならない」のに『學習指導要領』は何うしてあるのでせうね。をかしいですね。

小泉さんは靖国神社参拝について「私にも心の自由がある」と言いますが、それは違います。憲法が保障しているのは、権力者の自由ではありません。

権力者の言動を縛ることによって、私たち市民の自由を確保させることこそを求めているのです。だからこそ思想、良心の自由を守ることは、国の責務なのです。

あられ? 言ってゐる事が変です。「国家が個人の内心に入っていくことは大問題」と言ったのは、誰でしたっけ。権力者は個人です。よもや、忘れてはゐませんよね。

誰のものであれ、「言論を縛る」のは言論統制と謂ひます。「権力者」とて例外な筈はありません。いやいや、斯う言った方がわかり良いか。「貴女はすでに國會議員と云ふ名の「権力者」です。ですから、貴女の言動を縛ります」と云はれたら貴女は唯々諾々と従ふでせうか、従ひませんね。さう言ふことです。

首相は「憲法にしても国家にしても、国民の権利を守ると、基本的人権を守ると同時に、その守るためには権力というものが必要なんですね。この両面が必要なんです。権利が大事であるということと同時に義務も重要であると。権力がなければ国民の安全は守れないんです。その辺の調整、よく考えないと、単なる国家が国民を支配するということだけじゃないんです・・・」と答えています。

しかし、今、現場で起こっていることは、まさに権力によって強制され、権力が市民に保障するべき自由が壊されているのです。首相はこのことを直視していません。

引用した文章を讀む限り、直視してゐるんぢゃないでせうか。(ちなみに吾は小泉首相をfascioとみた者です。)それより、どうして「保障するべき自由が壊されている」のか、さっぱり判らないのです。吾に讀解力がないからでせうか。違ひます、理由がないからです。結論が先にあるのでせう。

また自民党の新憲法草案には、今の日本国憲法から「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」という文章が削除されていることを指摘しました。なぜでしょう?なぜ、過去の戦争への反省と再び戦争を起こさないという未来への決意が削除されているのでしょう。

戰爭は他の手段を以てする政治の延長である。ならば、戰爭から目を瞑る政治は片端政治です。日本の政治が根本的に駄目なのは政治家でさえ戰爭から目を瞑るからです。

何を子ども達に伝えるのか、私たち大人に問われています。教育という未来をつくる現場では、子ども達、親たち、先生たち、来賓の人たちが国歌国旗を強制され、自由が壊されています。その背景には、歴史を直視して伝えていくのではなく、国家の都合のいいように歴史をかえていく動きがあり、その動きは子どもたちが学ぶ教科書の記述に表れています。

式典の場で國旗掲揚時は起立して當然です、國歌は歌って當然です。これは世界の常識です。──このことを教はらないばかりに、Olympicsで大顰蹙を買った日本のメダリストがゐます。これで日本國が、さう、日本國全體が大恥をかいたのです。國が保障するあらゆる「自由」は、公共の福祉に反しない程度に守られます。而るに、國家國旗からの自由を求めるのは公共の福祉に反してゐると断ぜられませう。ならば、國家は式典で國歌國旗は當然と認識させるべきでありますし、教育にもそれを要求し得ます。

過去の戦争では、国家神道が強制され、思想良心の自由が壊された上に成り立ちました。だからこそ、同じことを繰り返してはなりません。今の自民党の憲法草案のように、国家が私たちの心に入っていくような憲法にしてはいけません。

國家が心の中に入ってゐる状態を「愛國心がある」と云ふならば、より良いものではありませんか? 成立から半世紀も経ってゐるのに「入ってゐない」現行憲法よりも、余程良い。なぜなら憲法は自國を紹介する役割をも担ふものだからです。(「国家が私たちの心に入っていく」と云ふのは貴女が言ひ出した事柄です。勘違ひしないでくださいね。)

別記

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