抑、議論は「快・不快」で行ふものではない。[快・不快]に據って行はれる議論とは[為にする]ものである。但し、[為にする]議論自體を否定はしない。問題は何かを批評する立場の者が、己の[快・不快]に據って、安易に「批評しないで呉れ」と云ふことにある。これは自身の怠惰を曝け出してゐるやうなもの。真面な(言論)人なら「批難しないで呉れ」と云ふことはあっても「批判しないで呉れ」とは云はないものである。云々。
handle だらうが、實名だらうが、批評と云ふものの本質には關係のないものである。──肝要なのは中身であるからだ。中身を見ずに己がその人物を「見知ってゐるか否か」で判斷するのは、單なる[喰はず嫌ひ]でしかない。あと、「吾」が知ってゐても、「彼」は知らないと云ふことが屡々[ある]。その事に附いて考へた形跡は──見られない。
と云ふか、何で[高いところ]からものを言ふ割に斯う云ふことは考へないのだらう。それとも、批評する基準が「快・不快」であるやうな[趣味人]には、何うでも良いことなのだらうか。