漫録

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2006年02月06日

平成18年02月06日
むらさき殿こそ、どうしたのですか。
「「いろいろな読み方がある」」と生徒が云ひ、「どうともとれる文章なんてまるっきり意味がない」のなら、生徒の讀んだ文章は「意味がない」文章であるはず。實際には、生徒の讀んでゐる文章は「意味のある」ものである。であるならば、生徒はその文章を適切に讀めてゐない。──これでは、「本来は「書く」技法を教えなきゃいけないのに」と云ふにもかゝはらず、「讀めてゐない」と云ふ指摘になってゐる。
さて、或る對象(小説なり、論説なり、)に附いて(批評にしろ、感想文にしろ、)書くには讀めなければ話ならない。讀みこなせないままに書くとその文章は的外れなものになる。しかしその者は「的外れである」といふ批評すら讀みこなせないだらう。──そしてこれは「ブログ」で日常的に起こってゐる光景である。
ならば先づ、讀む方法を教へなければならない。「讀み偏重」の所以である。……なら何故讀めない者が大勢をる? それはそれ、讀解の名の下で似て非なる事を教へてゐる。何をしてゐるかと云へば「『感じる』方法」を教へてゐる。「『感じる』方法」を教へればこそ、作文と言へば「(讀書)感想文」となりうる。
──順當に讀めるにあって、改めて順當に書けるやうになるのだと、その程度のことしか言うてない積もり。

別記

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