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10月ごろに南の越冬地に旅立つ。日本で繁殖するツバメの主な越冬地は台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島などである。一部のツバメは関東を北限として西日本各地で集団で民家の家内や軒下にねぐらをつくり越冬することが知られている。これらの越冬ツバメの中にはシベリアなど日本より北方で夏に繁殖し日本で冬を越す冬鳥のツバメもいると考えられている。渡りや越冬については不明点がいまだに多い。
間違いに気付き、それを指摘する人は、善意でやっているのです。誤りを指摘する側は正しい知識を持っていますから、指摘しないことによって不利益を受けたりはしません。無理に指摘しなくても良いのです。「また嘘を教えているな」と鼻で笑い飛ばし、そのまま放置することも出来るのです。それでも指摘するのは何故でしょうか。
それは、嘘を教えられる人が、嘘を信じ込んでしまう人が気の毒だからです。多くの人に正しい情報を知ってもらいたいからこそ、わざわざ時間を割いて発言を書き、指摘するのです。
つらひ
この手の反應は、末弟に限らない。
お知らせは、別の記事にした方が良いと思ひます。
「周りへの配慮を欠く歩行者」は、迷惑するのが個々人なのでetiquetteの範疇だらう。「一人」用のエスカレータで追越さうとするのはmannersが身に付いてゐない人。
「人の渋滞」を起こしてゐるのは日本人の習性に據る。「呪縛」を逃れられないのだから、山本武史は「同罪」。また、「渋滞」してゐるにも關はらず階段を使はないのは横着のなせる業。吾はエスカレータが「使へない」時には好んで階段を使ふから、そんなことで一々不満を覺えることがない。
「断髪式で140人がはさみ 元幕内の☆司」
「(注)☆は火へんに華」
「集団に對して道義的責任を問ふ事は、道徳の越権行為である。」は間違ひ。政治の領域に道徳を持ってきてゐるのだから、越権してゐるのは道徳ではなく政治の方。
國語改革は、教へるのが大変だから國語の方を簡單にしようと、行はれた。教へ方ではなく、言語そのものを変へやうとした國語改革は中途半端な悪果を殘すに終り、國語の破壊を招いた。さて、この提言はといふと──英語のはうは簡單にできない。だから、小學のはうへ「おっ被せやう」としてゐるだけではないだらうか。自らの教へ方を工夫することがないのは同等である。
どだい授業時間をいくら延ばしたところで、その教科ができるやうになるわけではないのだが、そこからして履き違へてゐるのだらう。或は連中、樂をしたくて堪らないらしい。同じ穴の狢である。
英語に触れてゐると云っても、所詮遊びぢゃないか。わざわざ必修化する必要がどこにあらう。授業中に遊べと云ふのか。否、話は逆で、小學時分に英語に慣れさせるのを否定するものではない。「遊び」のままで良いのだ。「遊び」だから受け入れてゐる。必修化してしまふと、児童は「構へる」だらう。必修化するからには、到達させるべき目標が教師に課せられるだらう。さうしないと必修化する意味がないからだが、その為に教師は氣負ふだらう。教師の氣負ひは児童のはうも察する、それでは意味がない。低年齢での英語教育の目的は、「構へる」前に英語を日常のこととする点にあるのだから。
今の英語教育は、小學の「国語教育」を修了してゐる事を前提に組み上げられてゐる。英語のカリキュラム全體を大幅に変更しなければ「使へない」。「使へる」やうにするには、「小學生用」のカリキュラムを新たに作成する必要があり、さらに「中學英語」には「小學英語」を履修してゐるといふ前提を付け加へる必要がある。無論「高校英語」にもである。英語學習だけではない。小學5年に必修化すると云ふならば、小學4年までの國語教育のをも手を加へなければをかしい。──「部會」が何処まで樂觀視してゐるか、判らうと云ふものだ。或は、英語教育だけが國際化教育、と中の人が取り違へてゐるのだらう。だから、易々と提言できるのだ。
──思ふのだが、此処までする必要がある必修化は効するだらうか。と言ふか、此処まで出來るのなら教育法を工夫することは可能である。先づはそれからぢゃないか。それでも無理であったならば、改めて検討するが良いのである。いやいや、必修化の過程に、教育法の改善が既に含まれてゐる筈なのだ。ものには順序と言ふものがある。順序の先を見て、そこしか見ないのは手落ちと言ふほかあるまい。「部會」は結局、自らの怠慢と無能を晒したにすぎない。例ひ必修化が成ったとて、教へるはうがその儘ならば現状が変はるわけはない。変はらないなら、無駄である。多學年、他教科への皴寄せがある分、學力低下は推し進むことだらう。必修化よりも、先に変るべきがあるのぢゃないか。