「吉川座長は「皇室制度の歴史から見て、現代でどう受け入れられるかを議論したが、ほとんど可能性がないとの結論に達した」」
「現代でどう受け入れられるかを議論」してゐる時點で彼等が、歴史を裁く、と云ふ愚行を犯した事は明白。繼體帝の即位に關する歴史を軽んじてゐるからである。少なくとも千五百年前から無理であったものが、今になって有理にならう筈がないではないか。
「女系へ拡大」で全会一致をした[有識者]は全員、ものを知らない愚者である。
憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある
大統領制にした方がいい
我等の内なる天皇、なんてものは空想に過ぎない。「我」と「天皇」の關係はあっても「我等の内」に「天皇」は存在できない。なほ、「我の内なる天皇」も否定しうる。「我の内」には「我」しか存し得ないからである。
中国と韓国と北朝鮮のまわし者に物事の本質が分かるわけないだろう。
まともなジャーナリズムなんて根付かないと思う。毎回毎回私的か公的かを問うだけのマスコミの低レベルな報道のあり方を改めないともはや邪魔な存在でしかなくなるでしょう。
国益に反するメディアの存在が日本の最大の不幸なのだ。
輸入車もそうだ。日本は左側通行なのに、輸入車は日本に合わせず、自国仕様のままで輸出してくる。日本車は必ず、輸出国の現状に合わせて仕様を変えるでしょう。
そんな国民性だから相手から言われたらすぐに対応しようとする。言う事を聞こうとする。
靖国については何も聞かなくても、合わせなくてもいいんだよ。無理に自分を押し殺してまで相手に合わせようとするからひずみが起こり、矛盾が生じる。だって靖国参拝は宗教上の問題であり、日本人の心の問題なのだ。他国の他宗教の方々から干渉されるべきものではない。だいいち干渉されようがない事柄である。
儒教国の中韓国に日本固有の民族宗教である神道イズムが理解されようがないことがなぜ分からないのか。
何をやっても理解されない事にいちいち気を遣っていた歴代の総理を私は良しとしない。これから先の首相はどうどうといくべきだと思う。慣習としての靖国参拝を印象付けてやればいい。「継続は力なり」続けないからつつかれる。弱腰にならないで自国のアイデンティティーを守るために主張すればいい。
中国が当然のような顔をしてのうのうと国際社会で振舞っている。
儒教の教えって何なの?子曰く・・・何て教えてんだ?非礼にも程がある。
日本のメディアは自国の為に相手の弱点をつかないのだろう。どこの国に人間だ!
日本メディアも一緒になって煽るから余計にややこしい問題のように伝わってします。もっと単純でしょう。
ややこしい問題なんだよ。變に
ややこしくなってゐるのは事實だけども、
単純な話ぢゃないのも確かである。[或る結論]を持ってゐる人が「
単純に話を進めたい」と云ふだけのことだらう。
我々がキリスト教の宗教習慣を本当に理解できますか?イスラムの教えを本当に理解できますか?日本人は理解しようとする。もしくは理解したふりをする。
「そんな神様があっても良いんじゃない」と無意識に思っているのだ。
絶対儒教国の中韓国に理解されようがない。だから理解してくれなんて頼む必要もない。
一国の総理が自分の信じる宗教的行為を行うのに、なぜ国内外から非難されなければならないのか?
期待されている自分に気づき、期待に応えるって大切なことだと思います。子供を大学(私立)まで行かせるとその子に1千万以上のお金がかかっているわけです。普段は文句しか言わない親でも、自分の子に期待しているからこそそれだけのお金をかけるわけで。
ただただ詭弁(失礼)と議論のすり替えが面白い。内容というより表現を楽しんでます。
議論への参加は、頭が悪いので無理です。
「議論に加わるのは無理」と言いつつ、「詭弁」だの「議論のすりかえ」だのと、議論に加わっている。
詭弁、と云ってゐるのか、明らかにされてゐない。氏は、
詭弁(というのも失礼かもですが)続きで云々としてゐるだけで、その記述には論拠と謂ふものがないのである。これは議論ではなく、誹謗の類である。批難は言論活動に於いて議論の妨げとなる、許されないものである。従って、氏の記述は「批難である」として責められて良い。
The red disc in the centre of our national flag, shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but hence-forth be in fact, what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
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」なんてな具合にした方がまだしも意味が通ると思ふ──これはこれで彼れだけども……。吾が定義リストでマークアップしてゐる理由がここら辺にある。決定的な理由は他にあるけどまた今度。(と云って、書いた例しがないね。)抑、議論は「快・不快」で行ふものではない。[快・不快]に據って行はれる議論とは[為にする]ものである。但し、[為にする]議論自體を否定はしない。問題は何かを批評する立場の者が、己の[快・不快]に據って、安易に「批評しないで呉れ」と云ふことにある。これは自身の怠惰を曝け出してゐるやうなもの。真面な(言論)人なら「批難しないで呉れ」と云ふことはあっても「批判しないで呉れ」とは云はないものである。云々。
handle だらうが、實名だらうが、批評と云ふものの本質には關係のないものである。──肝要なのは中身であるからだ。中身を見ずに己がその人物を「見知ってゐるか否か」で判斷するのは、單なる[喰はず嫌ひ]でしかない。あと、「吾」が知ってゐても、「彼」は知らないと云ふことが屡々[ある]。その事に附いて考へた形跡は──見られない。
と云ふか、何で[高いところ]からものを言ふ割に斯う云ふことは考へないのだらう。それとも、批評する基準が「快・不快」であるやうな[趣味人]には、何うでも良いことなのだらうか。